恨みという感情

今回のDEEPゼミで私が持って行ったテーマは、家族のことでした。


私の兄は統合失調症のようなもので

その兄と暮らす母は、うつっぽくなっていると思われます。


私が実家で暮らしていたときは、まさに共依存状態で

「私が何とかしなくては」の罠に陥っていました。

もう限界になったのでしょう、あるとき私は、ひとり暮らしを始めました。


そうして「愛すべき家族」と見えていたものから離れ、見えてきたものは

支配「あなたがやって」

嫉妬「自分だけ幸せになることは許さない」

依存「俺はどうなるんだ」

という、家族の在り方でした。


私の考えや感情は、話しても通じない

私は、「話が通じない」人間が怖かった。


その恐怖や脅えは、私をどんどん侵略していきました。


部屋で一人でいるときに、脅える。


現実には離れているし、長年キネシをやっていて、そういった現実的な変化はたくさん出ているのに

現実に伴わないその感情だけはとれず、どういうことなのだろうと思っていました。

それを何とかしたくて、DEEPゼミに参加しました。

帰るころには、脅えない自分になりたかった。


ゼミが進むうちにみえてきたものは

母や兄から受けた過去の事実

やっとそれらと対峙して、さらにみえてきたものは

私の、恨みという感情でした。


日本を発つ少し前に

私は、頭では「母と兄に元気になってほしい」と言っているようなのに

身体では、そのフレーズがオフなことに気付きました。

そのときは、ああ、私は怒っているんだくらいに思っていたのですが

ゼミで見たものは、もっともっと深い、恨みという感情。


私は、

私に恐怖を味わわせ、大切なものを壊してこようとした兄に

「その天罰として気狂いでいろ」と思っている。

私が喜びを抱くことを禁止した母に

「その復讐として、生きる気力を失ったまま不幸で生きて終われ」と思っている。


そしてそれは、きちんと現実になっていた。


恨みという感情は、復讐、仕返しをしたい、同じ目に遭わせてやりたいと思うこと。

その奥底にあるものは


”理解してほしい、わかってほしい”という気持ち


どんなに辛いか、どんなに苦しいかを一切受けとめてもらえない。

同じ目に遭わせてやりたいと思うことは

同じ目に遭うことでもって、自分の気持ちを理解してほしいということ。

恨みという感情は、その気持ちの塊なのだと思いました。


”誰かに理解してほしい”


自分の気持ちを、他人は理解してくれることもあるかもしれないけど

理解しないことがほとんどだろう。


だけど、”誰かに”理解してほしい、というのがはじまりのように思う。

自分は誰かに理解してほしかったのだと気づいて初めて

理解するという視点ができる。


そして、他の誰よりも深く、自分で自分を理解し出すのだと思う。


他ならぬ自分に対して

”わたしはまちがっていた

あなたがどれだけ辛かったか

どれだけ苦しかったか

その想いの忌まわしさだけを見て取って、あなたを恐れ憎んでいた

それを知ったからには、わたしはあなたの恨みを理解したい

悼みたい”

まるで自分を供養するよう。


どんなに辛いか、とか

理解してほしい、とか

エゴの塊だろうけれど

それが出てくるならば、自然のように思った。


恨むことに対象の別はなく

人に対して思っていることは、

自分に対して「天罰として気狂いでいろ」と思っているということ

自分に対して「その復讐として、生きる気力を失ったまま不幸で生きて終われ」と思っているということ


もう自分を、そんな目に遭わす訳にはいかないね


恨みに対するものは、幸せと喜び

恨みを止めるものは、感謝


そこで私が目を向けるものは

幸せと喜びになったんだ。


感謝をすると、幸せと喜びがくっきりするんだ。


私は、なんにもない子どものような空間で、喜びを全身で味わって生きたい。

大福庵 daifukuan

横浜キネシオロジーセッション・講座

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